1993年~1994年 黄金期の写真

1993年から1994年のフランクフルト界隈を中心に当時の懐かしい写真を。

みんなの住んでいたタウナス山麓。坂を下って行くとその先にはフランクフルトの街並が見えましたね。

タウナスからフランクフルト市街を臨む

フランクフルトの市内には特徴的な建物がいくつかあります。このアルテ・オパーもその一つ。市内に買い物に行く時に何回も前を通りましたが中に入ったことはありません。

アルテ・オパー

質実剛健な造りの家が多かった住宅街には春になるとレンギョウの黄色い花が咲きます。日本のレンギョウよりずっと大きくて立派でしたね。

住宅街に咲くレンギョウ

近所の子供たちと遊ぶ娘(3歳のころ)、何遊びなのでしょうか。

道端で遊ぶ

ドイツに赴任して初めての夏休み。I東さんとエーゲ海クルーズにご一緒させていただきました。
真夏のアテネは酷暑、行列をなしてパルテノン神殿に登ったり、第一回近代オリンピックが開催された競技場に行ったりで疲れました。ちょっと涼しくなってきた夜、戸外のレストランで昼間の疲れを癒しました。

1993年8月 アテネのレストランで

エーゲ海を周るクルーズ船の旅は思ったよりハードスケジュールです。その日の観光を済ませると夜は次の港に向かっての航海。エーゲ海はイメージとは違ってかなり揺れることもありました。
トルコのエフィソス遺跡に行く朝はクシャダス港の桟橋に5時に集合。バスに揺られて遺跡に。広大な遺跡を周るうちに娘はすっかり疲れてしまいました。I東妻さん、貴女も疲れているのにおんぶしてくれてありがとうございました。(よく見ると後ろに変な風体の人がいますね)

1993年8月 トルコのエフィソス遺跡にて

その年の10月にはベルギーのブラッセルで駐在員総会が開かれました。欧州向け車両の法規認証業務を担当しているブラッセルオフィスにドイツ、英国の駐在員が集まりました。何の会議をしたのかは何も覚えていません。

1993年10月 欧州駐在員総会

その間、奥様やお子さん達はブラッセル市内を観光です。

1993年10月 ブラッセルにて

その晩はお寿司屋さんを貸し切りにして、普段あまり食べることのできないお寿司を堪能しました。
翌日はブルージュ観光。「屋根のない美術館」といわれるブルージュの街はまさにヨーロッパそのものでした。
この写真はその時の駐在員のお子さん達、今や全員が30台かと思うと時の流れは早いものです。

1993年10月 駐在員のお子さん達@ブルージュ

その晩はブラッセルの「美味いもの横丁」で魚のスープを味わいました・・・というか、それ以外の料理を思えていません。

1993年10月 ブラッセル美味いもの横丁

食事の後に市内を散策、市庁舎のあるグランプラッツを入ったところにある「小便少女」の前で奥様達が集合。小便少女、ちょっと不気味ですね。

ラッセルの小便少女の前で

年末になり、フランクフルト空港に隣接するシェラトンホテルでクリスマスパーティーを開きました。ちょっとハイソな雰囲気での楽しいパーティーでした。

どなたとは言いませんが、「ちょっと飲み足りな~い」とおっしゃる奥様方がいらっしゃいましたね・・・アナタ方のことですよ!

1993年のクリスマスパーティーシェラトンホテル

冬休みになりました。今度はM田さん一家とカナリア諸島のリゾートホテルに行くことになりました。
フランクフルトからの直行便が取れなかったので、ブラッセルまで車で移動して翌朝ブラッセル発の飛行機でカナリア諸島に行くことになりました。前泊したホテル田川の前の居酒屋でしたたかに飲み、ひどい二日酔いでの4時間近い飛行機は地獄でした。でもその晩にはホテル前のレストランで乾杯をしました・・・今も昔も学習能力ゼロです。

テニスシューズを忘れて行った人がいたりしたので買い出しに行きました。でも、この人たちなんだか難民のようにも見えますね。

1993年12月 カナリア諸島

カナリア諸島は「常夏」ではなく「常春」でした。白人の方々はへっちゃらな顔で泳いでいましたが、日本人の我々には水が冷たすぎました。
レンタカーのスペイン製フィアット・パンダとウノを借りて島内ドライブに出掛けました。西部劇が撮れそうな荒涼とした景観でした。

1993年12月 カナリア諸島

この辺はサングリアをよく飲むところです。アルコールに弱い二人の奥様もお気に入りで、ピッチャーに入ったサングリアを調達して部屋で飲みました。

1993年12月 ホテルの部屋でサングリア祭り

1994年になりました。
アイゼンストラーセのオフィスにはI東、M田、Y江、Y川が揃い、仕事はバラバラですが食事や飲み会、ドイツ語の授業(会社と家の両方でしたが、会社の方は真面目に予習復習をしてくるのは(ヒマな)M田さんだけだったので先生に愛想を尽かされて自然消滅してしまいました。家の奥様方はシュペネマン先生と楽しく長続きしましたね。)、テニスなどで家族共々楽しい日々を過ごしていました。

6月には所長のH園さんが日本に帰任となり、後任はG藤さんになりました。G藤さんはその後にできるIMG(いすゞジャーマニー)の初代の社長さんです。

1994年6月 H園さん帰任

翌7月に突然のようにM田さんが日本に帰任となりました。残念ですがハウプトヴァッフェのレストランで送別の食事をしました。

1994年7月 増田さん帰任

M田さんの帰任を以って、楽しかった四家族での1年あまりの黄金期は終わりを告げました。

 

<おまけ>

タイヤメーカーからF1のパドックパスを貰ったのでI東さんとホッケンハイムサーキットに行きました。
二人の目線の先に居るのはF1の世界では有名人のアラン・プロストさんです。

1994年7月 F1ドイツGP

 

ドイツの思い出 1993年~1994年

今からほぼ30年前、日本から遠く離れたドイツの地で苦楽を共にした方々との思い出をいくつか綴ってみました。
ちょっと断片的ではありますが懐かしんでいただければ幸いです。

私がドイツに赴任したのは1993年5月、145というSUVGMヨーロッパとの共同開発プログラムのオペルのTDC(開発部門)との協業の窓口として、私自身も初めての海外赴任でした。
当時のリュッセルスハイムオフィスには所長のH園さん、欧州営業のT島さん、部品部のM田さん、産業エンジン営業のI東さん、サービスのO川さん(だったかな・・・お名前失念しました。Y川さんの前任者)、秘書はオッタース女史がおり、オペルTDCにエンジンのI田さん、トランスミッションのI田さんがいらっしゃいました。
開発部門の駐在員はベルギーにデザインのN村さんとM山さん、法規認証のM野さん、英国IBCにI崎さんがいらっしゃいましたが、リュッセルスハイムのアイゼンストラーセのオフィスでは開発系の駐在員は私が最初(で最後)でした。

その後まもなくY川さんが赴任され、M田さんが帰任される1994年7月までの約1年間が、私たち家族にとってはとても楽しく、且つ印象深い期間でした。言わば黄金期とも呼べる時間だったかもしれません。

話が長くなりますので、ご家族ごとの断片的な想い出の切れ端をいくつか記したいと思います。「君」と「さん」が混在していますが、当時の雰囲気そのままですのでご容赦ください。

<Y川家>

  • Y川君、着任直後のスペイン出張で貝にあたってダウン。
  • Y川君、自慢は人差し指の長さ、ゴールキーパーとしてはとても良いことらしい・・・努力の賜物ではないと思うのですが。
  • Y川妻、飲み会の最後の方になるとヤンキーの地が出てきました。
  • Y川君(の奥さん)から戴いたニコンのレンズ(の素材)の文鎮、今でも使っています。
  • Y川君、英国に異動したY江が後年ドイツに出張した際、夕飯に連れて行ってくれました。ところがハウプトヴァッヘの駐車場が20時で閉まることを知らずに締め出されKバーンで帰宅。
    翌日はY君自身の帰任に向けた引越しの日だったのですが・・・奥さん、ご迷惑をお掛けしました。

<I東家>

  • I東家、夫婦喧嘩の最中にパンク交換したタイヤを路上に置き忘れる。
  • I東君、いつも下痢気味。
  • I東君、酔うとメガネがずり落ちました。
  • I東君のサインにはひらがなの「た」の字が隠れているという秘密を私は知っています。
  • I東君、産業エンジンの拡販で各国を飛び回るがなかなかエンジンは売れず。
    ある日、「エンジンの利益(売り上げだったかな)より僕の駐在費の方が高いかもしれない・・・」と真顔で言っていました。
    みんな、仕事は大変だったんですよね。
  • 後年、スイスのツェルマットの駅前でI東妻&その母に偶然遭遇しました。

<M田家>

  • M田さん、会社そばのマツダのカフェテリアで皆(Y江、I東、Y川)で帰りに一杯のつもりが飲み過ぎで二日酔いで休み・・・実は私も休みました。
  • M田さんとI東君、ブリュッセルアントワープ?)でMAESAの接待帰りにコート置き忘れて店員に追いかけられ必死に逃げる。(店員のことを暴漢と勘違い。)
  • M田さんの縞縞の変なズボン、クリーニングに出したら巨大化して戻ってきた。
  • M田さんの家にS太と自転車で行きました・・・遠いし坂だらけ、辛くてS太が泣きそうに。疲れたのと帰り道の不安で水を頂いたらすぐに帰りました。
  • ある週末にM田さんの家で飲み会。Y江宅に置き忘れたワインをK子ちゃんのコルサで取りに戻る途中に出合い頭事故、コルサの前が大破。相手の過失でしたが、警察に行ってレンタカーで帰ったらもう夜だったので飲み会なしで解散。
  • M田さん宅での飲み会帰り、日頃からM田さんの庭の手入れに文句を言うドイツ人のベンツのアンテナをI東君、Y川君と酔った勢いで折ってやりました・・・今考えると立派な犯罪ですね。

<H所長>

  • Hさん、駐在員を連れてザクセンハウゼンの名物店のツムグラウエンボックでアップルワイン(所長自ら「馬の小便」とおっしゃっていました)とアイシュバインを堪能。
    会計時に100マルク札をお出しになって「あとは君たちで足してください。」・・・でもそれってほぼ割り勘ですが。
  • Hさん宅で所長手作りの料理(ポトフだったかな)とアクアビット等の珍しいお酒で飲み会。帰り道のハウプトヴァッヘの広場の外気温度計が二桁マイナスでした、寒かったぁ。
  • その後捕まえたタクシーで、日本語が通じないドライバーに酔っぱらい全員で大声の日本語で行き先を指示、ドライバーは目を白黒。
    最後のケーニッヒシュタインに着いたのはいつ?そもそも無事全員の家に着いたのかな?最初に降りたので結末が分かりません。
  • H所長のお供でフランクフルトの日本食屋で某メーカーの接待に同席。
    いすゞさんでも、このように海外の駐在員になられる方はさぞやエリートの方なんでしょうね〜」という問いかけに、「いや、こういうところに来る者は、そいつが居なくなってもその部署が日々の業務に困らないような、まあいびり出されて来たような奴が多いんですよ」と即答。
    隣で思わずのけぞりそうになりました。

<オッタース女史>

  • オッタース、朝一でコーヒーメーカーの容器に水性肥料を入れて観葉植物に水やり、その後さっと洗っただけでコーヒーを作ります。出勤の遅い人達はその事実を知らず、出来立てのモーニングコーヒーを飲んでいました。
  • オッタース、交通違反の切符を切りに来た警官から頼んでもいないのにI東君を庇う、いやM田さんを庇うだったかな?

<昼ご飯>

  • 昼ごはんはケーニッヒシュタッッテンのイタ飯屋フランゴが一番多かったですね。日本から出張者がくると夜もよく連れて行きました。
    フランゴの内装がリニューアルされて綺麗になったのは僕たちのおかげだと思います。
  • 中華ではリュッセルスハイムの川そばのロータス(よく「碧い瞳のエリス」が掛かっていました)、ホテルコロンビアそばの中華(名前失念、、、ラッキーシックスだったかな、二階は怪しい骨董屋)。
    どっちもそんなに美味ではなかったんだけど、週に一二度は何故かサンラータンとかチャーハンのような中華が食べたくなるんです。
  • ダルムシェテッター通りの方にある韓国料理店は味は良いがとにかくめちゃくちゃ辛い。食べれば風邪気味で詰まった鼻も通るほど。
    その辛さのせいで、日本のエンジン設計からの出張者(I東君の仕事がらみの)K山さんのエキゾーストが壊れてホテルから出られなくなる事件がありました。
  • リュッセルスハイムで昼ごはんの時は、必ずといっていいほどドイチェバンクに寄ってお金をおろしていましたね。
    昼休みの時間をあまり気にするでもなく、のんびりと歩いていきました。同じようにプラプラと歩いている高名なカーデザイナーのオペルの児玉さんによく遭遇しました。

<旅行>

  • 赴任後初めての夏の欧州内旅行はI東夫妻とギリシャエーゲ海クルーズでした。
    その後の5年間の赴任期間、家族でヨーロッパの多くの国を訪れましたが、この旅行で訪れたサントリーニ島とミコノス島の絶景が最高だったかもしれません。
  • ロドス島の海水浴場で借りたベダルボートで沖に流されそうになって焦りました。
  • 最初の冬の旅行はM田一家とカナリア諸島へ。「常夏」だと思ってよく見たら「常春」、泳ぐにはちょっと寒かったですね。
  • カナリア諸島のホテルそばの中華、食べたい料理をスペイン語では説明できないので、色鉛筆でチンジャオロースと酢豚の絵を描いて持っていったらバッチリでした。

<おまけ>

  • Y江の家族が日本に里帰り中、I東君とY川君を呼んでカツ丼作りに挑戦。
    クライネマルクトで良さそうな豚肉を買ってきたのですが、肝心のカツ丼の作り方が分からず全く甘さのないドライなカツ丼ができました・・・でもI東君もY川君も「美味しい!」と言ってくれました。
    とてもドライなイエハー(懐かしい!)で流しこみました。

 

思い出は尽きませんが今回はこんなところで。